若狭彦神社
わかさひこじんじゃ
若狭国一宮の若狭彦神社へ参拝。
JR小浜線・東小浜駅で自転車を借りて約13分。(2.2km)
県道35号沿いに下社(若狭姫神社)があります。
その少し先に上社(若狭彦神社)があります。
遠敷の若狭彦神社上社の手前、約200mのところの道端の鐘楼に梵鐘があります。
今回は整備をされている県道35号線から向かいます。
しばらく進むと右側に神社が見えてきます。
入口には、由緒記の説明板が掲げられています。
正面から鳥居を進むと木々に覆われ、静かな境内。
(来社した際、軽自動車が正面に停車しており、1名の男性が参拝。他に3名程の家族連れとすれ違いました。)
境内の左右に立つ巨大な杉の大木。
その先には、慶應三年(明治元年の前年)に奉献された石燈籠があります。
この先の随神門の前に「禊の神橋」が見えます。
随神門を進みます。
門には、神社についての説明板が掲げられています。
門の中には仁王像ではなく、人形が参拝者を見ているようです。
前方には、社殿が見えます。
左手には、手水があります。
神門前で参拝。
神門左には、
「遠敷の上下宮さま かみのみや」と木札が掲げられていました。
神門右には、
「みな人の 直き心ぞ そのまゝに 神の 神にて 神の 神なり」の木札。
神門越しに本殿を拝観
神門の鈴は明治38年に寄進されたものです。
神門の右側には、末社の若宮神社が鎮座。
参拝を終えて、下社の若狭姫神社へ向かいます。
わかさひこじんじゃ
<御由緒>
若狭彦神社の上社の祭神は「彦火火出見尊」で「若狭彦大神」と称え奉り、下社の祭神は「豊玉姫命」で「若狭姫大神」と称え奉る。
若狭国遠敷郡西郷ノ内、霊河の源、白石の上に、先ず彦神、次いで姫神が降臨されたので、その地に仮に社殿を営み、後、元正天皇の霊亀元年(715)9月10日に今の地に遷し奉ったと伝えている。
古来から若狭国の「一の宮」として信仰されているが、殊に、水産業者には、海上安全、海幸大漁の守護神として崇敬されている。
また、奈良東大寺二月堂の「若狭井」の水源と伝えられる鵜の瀬の霊域は、当社の飛地境内地で由緒が深い。
下社は、元正天皇の養老5年(721)2月10日に豊玉姫命を遠敷の里に奉祀した。
古来から若狭国「二の宮」として信仰されている。
延喜式神名帳に「若狭比古神社 二座 名神大」と記載されているように上社と下社とを合せて「若狭彦神社」と尊称している。
天慶3年(940)正月6日に上社に「正一位」、永保元年(1081)に下社に「正一位」の高い神階を給い、明治4年5月に上社下社共に國幣中社に列せられた。
御神徳は広大無辺で、称徳天皇が神護景雲4年(770)に鹿毛馬を献ぜられたのを始め、歴朝の御崇敬。
国司、守護、領主、藩主、武士、庶民一般の「守護神」として深く信仰されてきた。
楼門に安置してある随身は、御祭神の降臨の時にお供をされた神々である。
境内は、千年杉をはじめ老樹亭亭と聳え、閑雅幽邃の地で、神威渺渺とした神域である。
若狭彦大明神が、宇多天皇の御子敦実親王に告げられた「四神の御歌」。
みな人の 直き心ぞ そのままに
神の神にて 神の神なり
(福井県神社庁サイトより)
若狭彦神社の上社の祭神は「彦火火出見尊」で「若狭彦大神」と称え奉り、下社の祭神は「豊玉姫命」で「若狭姫大神」と称え奉る。
若狭国遠敷郡西郷ノ内、霊河の源、白石の上に、先ず彦神、次いで姫神が降臨されたので、その地に仮に社殿を営み、後、元正天皇の霊亀元年(715)9月10日に今の地に遷し奉ったと伝えている。
古来から若狭国の「一の宮」として信仰されているが、殊に、水産業者には、海上安全、海幸大漁の守護神として崇敬されている。
また、奈良東大寺二月堂の「若狭井」の水源と伝えられる鵜の瀬の霊域は、当社の飛地境内地で由緒が深い。
下社は、元正天皇の養老5年(721)2月10日に豊玉姫命を遠敷の里に奉祀した。
古来から若狭国「二の宮」として信仰されている。
延喜式神名帳に「若狭比古神社 二座 名神大」と記載されているように上社と下社とを合せて「若狭彦神社」と尊称している。
天慶3年(940)正月6日に上社に「正一位」、永保元年(1081)に下社に「正一位」の高い神階を給い、明治4年5月に上社下社共に國幣中社に列せられた。
御神徳は広大無辺で、称徳天皇が神護景雲4年(770)に鹿毛馬を献ぜられたのを始め、歴朝の御崇敬。
国司、守護、領主、藩主、武士、庶民一般の「守護神」として深く信仰されてきた。
楼門に安置してある随身は、御祭神の降臨の時にお供をされた神々である。
境内は、千年杉をはじめ老樹亭亭と聳え、閑雅幽邃の地で、神威渺渺とした神域である。
若狭彦大明神が、宇多天皇の御子敦実親王に告げられた「四神の御歌」。
みな人の 直き心ぞ そのままに
神の神にて 神の神なり
(福井県神社庁サイトより)
🐾 あしあと 🐾
若狭国一宮の若狭彦神社へ参拝。
JR小浜線・東小浜駅で自転車を借りて約13分。(2.2km)
県道35号沿いに下社(若狭姫神社)があります。
その少し先に上社(若狭彦神社)があります。
▶若狭彦神社(上社)
本殿・神門・随神門
延喜式に記録されている若狭比古神社二座が当社(上社)に当り、下社と併せて若狭一の宮とされる一国鎮守の大社である。かつて当社に伝世の重要文化財「若狭国鎮守神人絵系図」(鎌倉期成立 国所有)には、明神鳥居を前方に、三間一戸の楼門と、その左右に起る板敷回廊が、三間社流造の本殿を四周する各丹塗の壮麗な社殿景観を画き、今日と比べて、その構造と配置の変遷を偲ばせる。
ほぼ東面する本殿は、文化10年(1813)造営の三間社流造(梁間三間 内前室一間)、桧皮葺、素木造で組物はすべて大斗船肘木、妻飾は二重虹梁、豕扠首式である。
中備の蟇股は紋章の透彫を飾り、庇をうける4本の方柱は手挾付で、母屋繋はない。軒は正面を飛檐打越、背面を二軒繁垂木の化粧とする。昇階は9級である。
この本殿は、大棟を梁間の真中におくため、比較的前方屋根の出が短く、勢い破風の反も緩かであり、また棟を貫く千木、10枝の勝男木、妻の鞭懸などに特色があり、これを下社の本殿と比べれば、その相違は明瞭である。
神門(中門)は、天保元年(1830)の造営。切妻造平入、桧皮葺、素木造の至って閑雅な四脚門である。
随神門は、江戸後期の造営。入母屋造平入、桧皮葺、素木造、桁行三間、梁間二間の清雅な八脚門で、正側面と、中柱で区画する前面一間を、床高の随神座とし、広い中央の通路を挾んで、随神像各4軀が、左右に正対する珍しい形式である。当社の随神は、祭神影向の際、随従の吉祥八人と、神人絵系図は伝える。
なお、随神門と神門の間には、昭和40年の風害で倒壊した方三間入母屋造平入の拝殿礎石が残っている。
<若狭小浜デジタル文化財(小浜市教育員会)サイト>
東小浜駅方面から県道35号線を進むと右手に銅造梵鐘が見えてきます。 本殿・神門・随神門
延喜式に記録されている若狭比古神社二座が当社(上社)に当り、下社と併せて若狭一の宮とされる一国鎮守の大社である。かつて当社に伝世の重要文化財「若狭国鎮守神人絵系図」(鎌倉期成立 国所有)には、明神鳥居を前方に、三間一戸の楼門と、その左右に起る板敷回廊が、三間社流造の本殿を四周する各丹塗の壮麗な社殿景観を画き、今日と比べて、その構造と配置の変遷を偲ばせる。
ほぼ東面する本殿は、文化10年(1813)造営の三間社流造(梁間三間 内前室一間)、桧皮葺、素木造で組物はすべて大斗船肘木、妻飾は二重虹梁、豕扠首式である。
中備の蟇股は紋章の透彫を飾り、庇をうける4本の方柱は手挾付で、母屋繋はない。軒は正面を飛檐打越、背面を二軒繁垂木の化粧とする。昇階は9級である。
この本殿は、大棟を梁間の真中におくため、比較的前方屋根の出が短く、勢い破風の反も緩かであり、また棟を貫く千木、10枝の勝男木、妻の鞭懸などに特色があり、これを下社の本殿と比べれば、その相違は明瞭である。
神門(中門)は、天保元年(1830)の造営。切妻造平入、桧皮葺、素木造の至って閑雅な四脚門である。
随神門は、江戸後期の造営。入母屋造平入、桧皮葺、素木造、桁行三間、梁間二間の清雅な八脚門で、正側面と、中柱で区画する前面一間を、床高の随神座とし、広い中央の通路を挾んで、随神像各4軀が、左右に正対する珍しい形式である。当社の随神は、祭神影向の際、随従の吉祥八人と、神人絵系図は伝える。
なお、随神門と神門の間には、昭和40年の風害で倒壊した方三間入母屋造平入の拝殿礎石が残っている。
<若狭小浜デジタル文化財(小浜市教育員会)サイト>
遠敷の若狭彦神社上社の手前、約200mのところの道端の鐘楼に梵鐘があります。
<梵鐘>
江戸時代初期、音無川の岸にあったもの。
明治の神仏分離の際、神域から運び出し、竜前区が管理し続けている。
上廻り:160cm
下廻り:220cm
高さ:105cm
直径:外 71cm 内 57cm
竜頭高さ:20cm
竜頭幅:20cm
竜頭から下まで:125cm
撞坐廻り:225㎝
銘は「若狭国鎮守一宮 暦應亖年辛巳九月廿三日丁酉大願主法眼和和尚位圓海」と刻まれている。
(若狭一の宮(若狭彦神社)に奉納されてあったもの)
・梵鐘には、暦應亖年と刻まれている。
・辛巳は暦應4年。(1341-南北朝時代)
亖年と書いて4年と読ませることもある。
銅造梵鐘がある横の旧道らしき先を進むと集落があり、若狭彦神社前に続いています。江戸時代初期、音無川の岸にあったもの。
明治の神仏分離の際、神域から運び出し、竜前区が管理し続けている。
上廻り:160cm
下廻り:220cm
高さ:105cm
直径:外 71cm 内 57cm
竜頭高さ:20cm
竜頭幅:20cm
竜頭から下まで:125cm
撞坐廻り:225㎝
銘は「若狭国鎮守一宮 暦應亖年辛巳九月廿三日丁酉大願主法眼和和尚位圓海」と刻まれている。
(若狭一の宮(若狭彦神社)に奉納されてあったもの)
・梵鐘には、暦應亖年と刻まれている。
・辛巳は暦應4年。(1341-南北朝時代)
亖年と書いて4年と読ませることもある。
今回は整備をされている県道35号線から向かいます。
しばらく進むと右側に神社が見えてきます。
入口には、由緒記の説明板が掲げられています。
正面から鳥居を進むと木々に覆われ、静かな境内。
(来社した際、軽自動車が正面に停車しており、1名の男性が参拝。他に3名程の家族連れとすれ違いました。)
境内の左右に立つ巨大な杉の大木。
その先には、慶應三年(明治元年の前年)に奉献された石燈籠があります。
この先の随神門の前に「禊の神橋」が見えます。
随神門を進みます。
門には、神社についての説明板が掲げられています。
門の中には仁王像ではなく、人形が参拝者を見ているようです。
前方には、社殿が見えます。
左手には、手水があります。
神門前で参拝。
神門左には、
「遠敷の上下宮さま かみのみや」と木札が掲げられていました。
神門右には、
「みな人の 直き心ぞ そのまゝに 神の 神にて 神の 神なり」の木札。
神門越しに本殿を拝観
神門の鈴は明治38年に寄進されたものです。
神門の右側には、末社の若宮神社が鎮座。
参拝を終えて、下社の若狭姫神社へ向かいます。
Control number:
G18R_若狭彦神社_ISG039_2023909
Create:2023.12.10