みなとがわじんじゃ
楠木正成公は後醍醐天皇の勅命を受け、鎌倉幕府の勢力や新たに武家の政権を立てようとする足利高氏と戦って正義と忠誠を示されました。
しかし延元元年(1336)に、この湊川の地での足利軍との戦(湊川の戦い)で自刃されました。
その後地元の人々によって、この地に葬られていた正成公の塚(お墓)は大切に守られてきましたが、江戸時代に入り、正成公を非常に崇敬された徳川光圀公によって立派なお墓が建立されました。
このお墓の建立後は正成公を慕い、その精神を拠り所とするため、多くの人々が参詣し、特に幕末には吉田松陰や坂本龍馬など、志士達が訪れました。
明治元年に明治天皇がこの地に神社創祀の御沙汰を下され、明治5年に創建されました。
正成公の「御殉節地」と、徳川光圀公自筆による「嗚呼忠臣楠子之墓」の墓碑は、国の重要文化財史跡。
先の大戦で焼失し戦後復興された社殿の天井には、全国の著名画家から奉納された天井画164点が収められ荘厳で豪華です。
宝物殿には「段威腹巻」(伝正成公御着用)や御真筆「法華経奥書」(共に国重要文化財)などゆかりの品々を展示しています。
また境内には、楠木家と能楽の祖である観阿弥・世阿弥との血縁関係より神能殿があり、兵庫県内随一の和の殿堂として伝統芸能愛好者に親しまれています。
(公式サイトより)
楠木正成公をお祀りする湊川神社へ参拝。(複数参拝)
高速神戸駅の地下を上がると表神門が見えてきます。
表神門を進むと右側に楠木正成殉節地、楠木正成公御墓所があります。
多くの方は、正面の湊川神社の社殿に向かって参拝されますが、参道右手の門を進むと授与所(無人)・手水舎があります。
この先には、湊川の戦いで自刃された楠木正成殉節地(じゅんせつち)があります。
延元元年(1336)5月25日、湊川合戦の末、正成公をはじめご一族が殉節を遂げられた場所です。(国指定文化財史跡)
炎天下に於ける足利軍との激戦の末、楠木一族が最期を迎えられた湊川の北方の民家が、この殉節地奥、注連縄の張られた辺りの場所であったと伝えられています。
もはやこれまでと覚悟された正成公、73人の一族郎党が2列に並び、念仏十編を唱え一斉に腹を切り、正成公と正季卿は、「七生滅賊」を誓い合い、刺し交えて、その壮烈無双な生涯を閉じられたのです。
佐賀藩「楠公義祭同盟」の出身者大隈重信、江藤新平、大木喬任がそれぞれが一対づつ奉納した大燈籠や、初代兵庫県知事であり、湊川神社創建に深く寄与した伊藤博文が大蔵少輔兼民部少輔時代に奉納した一対の燈籠など、楠公を偲んだ勤皇精神の志気の跡が残っています。
(公式サイト・楠公史跡より)
付近には、墓所の建立に尽力した徳川光圀公を追慕し、人間国宝・平櫛田中(でんちゅう)作の徳川光圀公像が建っています。
再び、湊川神社の参道へ戻ると、右手に朱色の鳥居が並ぶ稲荷神社があります。
参道を進みます。
拝殿右手前に手水舎があります。
拝殿へ向かいます。
社殿内では、祈祷が行われていました。
参拝日は2022年11月26日。
令和5年(2023年)の絵馬が社殿左にありました。
こちらの本殿内部の天井画も素晴らしい!
こちらでは、数種類の御朱印があります。
初回参拝のこの日は、通常版・湊川神社の御朱印だけにしました。
境内には、絵馬もありました。
掲載の写真タイトル後の番号は、参拝回数時を示しています。
(例:初回は無字or①)