大阪天満宮
おおさかてんまんぐう
日本一長いアーケード商店街で有名な天神橋筋商店街沿いに位置する大阪天満宮。
地元住民として頻繁に立ち寄り、参拝していますが、毎月25日は天神さんの御縁日とされています。
(誕生日6月25日、薨去(こうきょ)2月25日)
今回25日に御本殿に参拝した後に毎月25日限定販売の御朱印帳と共に御朱印を拝受。
御朱印帳表紙には、表門の天井にある十二支方位盤がプリントされています。
この十二支方位盤の「酉」には鳳凰が描かれています。
菅公が道明寺でおばさんと別れるとき、鶏の鳴き声で早められたという故事があって、天満宮ではトリが避けられてます。
境内には、摂社・大将軍社があります。
元旦に行われる大阪天満宮の神事は、大将軍社「祖(そ)」を奉納して天満宮の神事に移るようです。
これを参考に参拝する際は、大将軍社で手を合わせてから天神様に参拝するのが礼儀かも知れません。
おおさかてんまんぐう
基本情報
御朱印
参拝日:2022年2月25日
初穂料:500円(直書)
授与所:授与所
<歴史>
大阪天満宮の地には大阪天満宮が造営されるまえから大将軍社が祀られていた。同社は、長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや、大阪市中央区)の西北を鎮護するため、650年(白雉元年)に創祀された叢祠(ほこら)で、毎年6月と12月の晦日に、鬼気(もののけ)が都へ侵入するのを防ぐ道饗祭(みちあえのまつり)を斎行していた。901年(昌泰4年)九州へ左遷される菅原道真公は難波の渡辺に寄り、大将軍社に参拝して海路、筑紫へ旅立たれた。903年(延喜3年)、道真公は太宰府で59歳の生涯を終えたが、その約50年後の949年(天暦3年)のある夜、この大将軍社の社前に突如、七本の松が生え、夜ごとに梢が金色に光り輝いた(七本松伝承)。時の村上天皇は、これを道真公にゆかりの奇瑞として、勅願に依って社の大将軍森(のちに天神の森と呼ばれる。現在南森町という)に天満宮を造営した。以後、千有余年、寸尺も位置を変更することなく現在に至った。1342年(天正2年)に楠木正成と山名時氏の合戦、1570年(元亀元年)の石山合戦、1837年(天保8年)の大塩平八郎の乱等に焼失。現在の本殿は1843年(天保14年)の建築で、様式は権現造。なお、大将軍社は当宮の境内社となり、今に道饗祭を伝えている。
(大阪天満宮由緒書より)
大阪天満宮の地には大阪天満宮が造営されるまえから大将軍社が祀られていた。同社は、長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや、大阪市中央区)の西北を鎮護するため、650年(白雉元年)に創祀された叢祠(ほこら)で、毎年6月と12月の晦日に、鬼気(もののけ)が都へ侵入するのを防ぐ道饗祭(みちあえのまつり)を斎行していた。901年(昌泰4年)九州へ左遷される菅原道真公は難波の渡辺に寄り、大将軍社に参拝して海路、筑紫へ旅立たれた。903年(延喜3年)、道真公は太宰府で59歳の生涯を終えたが、その約50年後の949年(天暦3年)のある夜、この大将軍社の社前に突如、七本の松が生え、夜ごとに梢が金色に光り輝いた(七本松伝承)。時の村上天皇は、これを道真公にゆかりの奇瑞として、勅願に依って社の大将軍森(のちに天神の森と呼ばれる。現在南森町という)に天満宮を造営した。以後、千有余年、寸尺も位置を変更することなく現在に至った。1342年(天正2年)に楠木正成と山名時氏の合戦、1570年(元亀元年)の石山合戦、1837年(天保8年)の大塩平八郎の乱等に焼失。現在の本殿は1843年(天保14年)の建築で、様式は権現造。なお、大将軍社は当宮の境内社となり、今に道饗祭を伝えている。
(大阪天満宮由緒書より)
🐾 あしあと 🐾
日本一長いアーケード商店街で有名な天神橋筋商店街沿いに位置する大阪天満宮。
地元住民として頻繁に立ち寄り、参拝していますが、毎月25日は天神さんの御縁日とされています。
(誕生日6月25日、薨去(こうきょ)2月25日)
今回25日に御本殿に参拝した後に毎月25日限定販売の御朱印帳と共に御朱印を拝受。
御朱印帳表紙には、表門の天井にある十二支方位盤がプリントされています。
この十二支方位盤の「酉」には鳳凰が描かれています。
菅公が道明寺でおばさんと別れるとき、鶏の鳴き声で早められたという故事があって、天満宮ではトリが避けられてます。
境内には、摂社・大将軍社があります。
これを参考に参拝する際は、大将軍社で手を合わせてから天神様に参拝するのが礼儀かも知れません。
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Control number:
G27_大阪天満宮_OTG001_20220225
Create:2023.12.19