護王神社
ごおうじんじゃ
京都御所から烏丸通り(R367)の向かいに鎮座する護王神社。
俗称「いのしし神社」と言われています。
こちらの神社は、狛犬ではなく狛イノシシが拝殿前に鎮座しています。
境内にある手水舎「霊猪手水舎」。
こちらの猪の鼻を触れると「足腰がよくなる」などの御利益があるようです。
拝殿奥の中門で参拝。
中門の右側には、足萎難儀回復の碑があり、この前に足腰の回復を祈願される方がお参りしていました。
参拝を終えて、社務所の御朱印受付で御朱印を依頼。
特に行列が出来る程の御朱印を待つ人では無かったですが、預かり証を受取り、境内を散策。
境内には、期間限定で白いイノシシが展示していました。
5分程で記帳して頂いた御朱印帳を受取り神社を後にしました。
帰宅後、御朱印をじっくり見ると「令和五年」と記載!
「令和五年甲辰一月五日」
正しくは、令和六年の干支「甲辰(きのえ・たつ)」では?
SNSで誤記入を発信すると、公式サイト様から陳謝の言葉が返信。
参拝の記録としては、過ちがありますが、
「甲辰=令和六年」と読替えとお伝え、
「寛大なお言葉痛み入ります。」と返答を頂きました。
色々ありましたが、京都御苑蛤御門前付近にあった公家の中院家の邸宅跡に遷座(1886年)されたため、立派な表門・拝殿・中門・本殿が京都御所から一直線に美しい建築物が並ぶ神社でした。
ごおうじんじゃ
基本情報
<御由緒>
護王神社は京都御所の西側、烏丸通に沿いに鎮座する神社で、平安京の建都に貢献された和気清麻呂公(わけのきよまろこう)をお祀りしています。
確かな創建年は伝えられていませんが、もとは洛西の高雄山神護寺の境内に清麻呂公の霊社として祀られ、古くから「護法善神」と称されていました。
江戸時代末の嘉永4年(1851)、孝明天皇は清麻呂公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治7年(1874)には「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられました。
明治19年(1886)、明治天皇の勅命により、華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門(はまぐりごもん)前の現在地に社殿を造営し、神護寺境内からご遷座。後に姉君の和気広虫姫も主祭神として合わせ祀りました。
その後、崇敬者により境内の霊猪像(狛いのしし)が奉納され、「いのしし神社」とも呼ばれ親しまれています。
(公式サイトより)
🐾 あしあと 🐾
京都御所から烏丸通り(R367)の向かいに鎮座する護王神社。
俗称「いのしし神社」と言われています。
こちらの神社は、狛犬ではなく狛イノシシが拝殿前に鎮座しています。
<いのしし神社>和気清麻呂が宇佐へ配流された際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを、突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から、1890年(明治23年)から狛犬の代わりに「狛猪」が置かれ、いのしし神社と言われています。
こちらの猪の鼻を触れると「足腰がよくなる」などの御利益があるようです。
拝殿奥の中門で参拝。
中門の右側には、足萎難儀回復の碑があり、この前に足腰の回復を祈願される方がお参りしていました。
参拝を終えて、社務所の御朱印受付で御朱印を依頼。
特に行列が出来る程の御朱印を待つ人では無かったですが、預かり証を受取り、境内を散策。
境内には、期間限定で白いイノシシが展示していました。
5分程で記帳して頂いた御朱印帳を受取り神社を後にしました。
帰宅後、御朱印をじっくり見ると「令和五年」と記載!
「令和五年甲辰一月五日」
正しくは、令和六年の干支「甲辰(きのえ・たつ)」では?
SNSで誤記入を発信すると、公式サイト様から陳謝の言葉が返信。
参拝の記録としては、過ちがありますが、
「甲辰=令和六年」と読替えとお伝え、
「寛大なお言葉痛み入ります。」と返答を頂きました。
色々ありましたが、京都御苑蛤御門前付近にあった公家の中院家の邸宅跡に遷座(1886年)されたため、立派な表門・拝殿・中門・本殿が京都御所から一直線に美しい建築物が並ぶ神社でした。
Control number:
G26_護王神社_NUG026_20240105
Create:2024.0112