ぎおんじんじゃ
御霊信仰
平安時代の末期、第56代清和天皇の御世、京都では疫病が流行って多くの人々が死んだり、雷が落ちたりする災害がよく起こりました。これらの原因は、災害で被害にあったり政治などで失脚した人々の祟りであり、その御霊を鎮める事によってその力を頂くと言う御霊(ごりょう)信仰がはやっていました。
京都白川 東光寺
そこで占いをし、姫路の広峰神社にまつられている素盞嗚尊(すさのおのみこと)がこれらの祟りを治めるのに力があるという事がわかりました。今の京都・八坂神社の前身、京都北白川の東光寺(後に今の八坂の地に移り『祇園感神院』と称した)に素盞嗚尊をおまつりするため、貞観11年(869)のある日、姫路から京都に向けてご分霊をお載せしたお神輿の行列が出発しました。
徳城坊阿闍梨
祇園神社のありますこの平野(ひらの)の地には、当時広峰神社と縁のある姫路の書写山円教寺で修行された徳城坊阿闍梨が住んでおり、その案内で一泊されました。地元の人々はその後もご神徳篤いのを感謝し、祠を作ったのが祇園神社の始まりとされていますので、約1150年余の歴史を持つ神社です。
雪之御所
近くには、福原京の跡と言われる『雪之御所』の碑(湊山小学校内)もあり、また平家の屋敷跡の遺跡『祇園遺跡(解説板のみ)』もあり平家ゆかりの地でもあります。又、この神輿をかいた人々も疲れを癒したでしょうか、有馬温泉と同じ泉質の『天王温泉』『湊山温泉』もあります。
異空間
神社は、祇園山の中腹にあり約90段の石段を登ってお参りいただきます。上りきったそこは、都会の喧騒からはなれた異空間。石段が大変な方は、裏の坂道をご利用ください。裏山からのえもいわれぬ心地よい風は、お参りいただいた方へのただひとつの『おもてなし』です。
宮座
さて、この神社では安土桃山時代の天正年間以来8軒の家が宮座を組み、2軒ずつが1年ごとに神主役を奉仕(御当番と呼ばれた)してきました。江戸時代にはこの平野は、天領・片桐藩・畠山藩の3つの領地に別れましたが、天領・私領を問わずその庄屋連中8軒が協力して奉仕してきました。
江戸時代までの神社名は『素盞嗚社』あるいは『天王社』といわれ、通称『祇園さん』と呼ばれていましたが、明治になってからはその通称が正式な名称となりました。今も当社の横を流れる川を天王川といい、その谷を天王谷というのは、天王社といわれたころの名残りでしょう。
薬師堂
また、古絵図には、江戸時代までの神仏習合の時代、素盞嗚尊の本地仏とされる薬師如来をまつる薬師堂が境内にあったことが、描かれています。
(公式サイトより)
五宮神社の御朱印を頂きに祇園山の麓に位置する祇園神社へ参拝。
(五宮神社から約500m、約8分)
住宅密集地の山裾を歩いていると大きな道路が見えてきます。
有馬街道(国道428号)に並行して境内があります。
境内へは、88段の階段(開運厄除の石段)を登ります。
階段上からの光景。(境内から)
階段を上がると正面に拝殿、左は授札所、右側には社務所、奥に本殿が見えてきます。
右側に手水舎があります。
拝殿の奥に本殿があります。
本殿が正面。
右が皇太社(国の平安を守る神)。
左が春日社(出世の神)。
お昼の12時半。
参拝者は、来た時に2-3名居ましたが、帰り際には人影は見掛けず、偶然授与所窓口前に立っていると中から女性が出て来られ、御朱印帳を渡し記帳して頂きました。
今回は、通常版(②)の御朱印を拝受。
冬限定版(①)は書置きのようです。
御朱印に書かれている「牛頭天王」。
こちらは、右側に説明文が掲げられているように「御祭神の素戔嗚尊の別名」のようです。
この後、再び境内を参拝。
本殿後方には、左から日清戦争従軍記念碑、市杵島社、一願石、稲荷社、授与所、島原神社が並び、本殿右には猿田彦社があります。
一願石は、境内奥にあり見過ごしやす場所にあります。
こちらは1つだけ真心を込めて願い事をすると、その願いは成就すると、古くから信仰されている石です。本殿の脇に絵馬掛けには、きゅうりが描かれています。
こちらは、きゅうりを輪切りにすると、祇園神社の神紋に似ていることから、古来よりこちらの神社ではきゅうりをお供えして祈願すると言う風習があるようです。
参拝を終え、思っていた以上に広い境内。
毎年7月に8日間に渡る夏祭りが開催され、多数の参詣客が来られ、地元では「平野の祇園さん」と呼ばれているようです。
Control number:
G28_祇園神社_NUG018_20231202
Create:2023.12.04