櫛田神社
くまもとじょういなりじんじゃ
770年の伝統がある博多祇園山笠で知られる博多総鎮守の櫛田神社に参拝。
博多駅から徒歩15分程の近くにあり、7月15日の追い山笠の櫛田入りは境内の特設清道でクライマックスが行われます。
この日は、とある候補の選挙の出発式があるようで、境内は大勢の支援者で大混雑でした。
手水舎も支援者らしき人が囲み、利用できませんでした。
境内には、飾り山がありました。
境内を散策し、御朱印を頂きに授与所に戻ると出来ていたようです。
帰り際には、選挙の出発式の来賓らしき方の声が聞こえて、境内の人は減らなかったので足早に神社を後にしました。
くまもとじょういなりじんじゃ
基本情報
<歴史>
社伝では、天平宝字元年(757年)、松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まるとされ、松坂の櫛田神社の祭神の大幡主神が天照大神に仕える一族の神であったことから、天照大神も一緒に勧請されたと伝えられる。天慶4年(941年)、小野好古が藤原純友の乱を鎮めるために京都の八坂神社に祈願し、平定した後に当社に素盞嗚神を勧請したと伝えられるが、平安時代末期、平清盛が所領の肥前国 神埼(佐賀県神埼市)の櫛田宮を、日宋貿易の拠点とした博多に勧請したという説が最有力であり、櫛田神社の宮司らが編纂し1965年(昭和40年)に文部省(当時)に提出した『博多山笠記録』や1979年(昭和54年)に福岡市が発行した『福岡の歴史』でも佐賀県神埼市にある櫛田宮の分社とされている。
戦国時代に荒廃した[3]が、1587年(天正15年)、豊臣秀吉によって博多が復興されるときに現在の社殿が造営された。
1868年(明治元年)の神仏分離令より前の江戸時代までは東長寺に属する神護寺が櫛田神社を管理していた。
1891年(明治24年)に県社に列した。
(Wikipediより)
社伝では、天平宝字元年(757年)、松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まるとされ、松坂の櫛田神社の祭神の大幡主神が天照大神に仕える一族の神であったことから、天照大神も一緒に勧請されたと伝えられる。天慶4年(941年)、小野好古が藤原純友の乱を鎮めるために京都の八坂神社に祈願し、平定した後に当社に素盞嗚神を勧請したと伝えられるが、平安時代末期、平清盛が所領の肥前国 神埼(佐賀県神埼市)の櫛田宮を、日宋貿易の拠点とした博多に勧請したという説が最有力であり、櫛田神社の宮司らが編纂し1965年(昭和40年)に文部省(当時)に提出した『博多山笠記録』や1979年(昭和54年)に福岡市が発行した『福岡の歴史』でも佐賀県神埼市にある櫛田宮の分社とされている。
戦国時代に荒廃した[3]が、1587年(天正15年)、豊臣秀吉によって博多が復興されるときに現在の社殿が造営された。
1868年(明治元年)の神仏分離令より前の江戸時代までは東長寺に属する神護寺が櫛田神社を管理していた。
1891年(明治24年)に県社に列した。
(Wikipediより)
🐾 あしあと 🐾
770年の伝統がある博多祇園山笠で知られる博多総鎮守の櫛田神社に参拝。
博多駅から徒歩15分程の近くにあり、7月15日の追い山笠の櫛田入りは境内の特設清道でクライマックスが行われます。
この日は、とある候補の選挙の出発式があるようで、境内は大勢の支援者で大混雑でした。
手水舎も支援者らしき人が囲み、利用できませんでした。
拝殿に向かい参拝。
境内には多くの方で混雑していたので、参拝後社務所授与所で御朱印を依頼。
番号札を頂き、待ち時間が長そうだったので境内を散策。境内には、飾り山がありました。
また、力石があり、白鵬や双葉山、朝青龍の文字が入った石が並んでいました。
境内には、多くの境内社があるようです。<末社群(右から)>
1、松尾神社
御祭神:大山咋神(おおやまくいのかみ)
御神徳:酒造の神
御神徳:武道の神
御神徳:海上安全、航海の神
御神徳:食べものの神
5、竈門神社
御祭神:興津彦興津姫神(おきつひこおきつひめのかみ)
御神徳:かまどの神、炊事場の神
御神徳:家内安全の神
手置帆負神社(たおきほをいじんじゃ)と少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)も合祀されています。
御神徳:学問の神、書道の神
8、石堂神社
御祭神:吾田片隅神(あたかたすみのかみ)、宗像三神(むなかたさんしん)
御神徳:国防の神
Control number:
G40_櫛田神社_FUJ017_20211019
Create:2024.03.09