敷津松之宮(大国主神社)
しきつまつのみや(おおくにぬしじんじゃ)
大阪メトロ主催のウォーキングで立寄り参拝。
地下鉄大国町駅すぐの場所にあり、目の前は国道26号線。
境内には、敷津松之宮の拝殿と摂末社の大国主神社の拝殿があり、それぞれに氏神様・大国様の文字が掲げられています。
国道26号線・東側からの鳥居付近には大国主神社の石標と鳥居があり、正面に拝殿が見えます。
一方、南側の入口からの鳥居付近には敷津松之宮の石標があります。
こちらの正面には敷津松之宮の拝殿が見えます。
大国主神社の拝殿内には、大黒様が鎮座。
参拝後、御朱印を敷津松之宮の拝殿左側の受付で拝受。
境内には楠稲荷社が鎮座。
さらに、木津勘助の銅像と折口信夫の歌碑がありました。
木津勘助の銅像の解説板がありました。
<追記:2024/01/15>
大阪七福神巡りで1月13日に参拝。
大阪Metro主催ウォーキングのコースで再訪。
正月期間のため御朱印は書置きでした。
以前記帳していたデザインと同じものでした。
しきつまつのみや(おおくにぬしじんじゃ)
<御由緒>
社伝によれば、神功皇后が三韓を平定されて住吉大社に凱旋報告のため、敷津浦を航海されたとき、敷津浜に荒い波がうちよせられるのを見られ、『これから汐が満ちてはいけません』と松の木を渚に三本植え、素戔鳴尊(すさのおのみこと)をお祀りになり航海の安全を祈られたことから「松之宮」と呼ばれたとあります。敷津松之宮と“木津の大国さん”で知られる大国主神社とが相殿となっています。境内には木津勘助の銅像と折口信夫の歌碑があります。毎年1月9日から 11日には大国まつりが行なわれ、にぎわいます。
(大阪市浪速区・スポット・名所・旧跡サイトより)
社伝によれば、神功皇后が三韓を平定されて住吉大社に凱旋報告のため、敷津浦を航海されたとき、敷津浜に荒い波がうちよせられるのを見られ、『これから汐が満ちてはいけません』と松の木を渚に三本植え、素戔鳴尊(すさのおのみこと)をお祀りになり航海の安全を祈られたことから「松之宮」と呼ばれたとあります。敷津松之宮と“木津の大国さん”で知られる大国主神社とが相殿となっています。境内には木津勘助の銅像と折口信夫の歌碑があります。毎年1月9日から 11日には大国まつりが行なわれ、にぎわいます。
(大阪市浪速区・スポット・名所・旧跡サイトより)
🐾 あしあと 🐾
大阪メトロ主催のウォーキングで立寄り参拝。
地下鉄大国町駅すぐの場所にあり、目の前は国道26号線。
境内には、敷津松之宮の拝殿と摂末社の大国主神社の拝殿があり、それぞれに氏神様・大国様の文字が掲げられています。
国道26号線・東側からの鳥居付近には大国主神社の石標と鳥居があり、正面に拝殿が見えます。
一方、南側の入口からの鳥居付近には敷津松之宮の石標があります。
こちらの正面には敷津松之宮の拝殿が見えます。
大国主神社の拝殿内には、大黒様が鎮座。
参拝後、御朱印を敷津松之宮の拝殿左側の受付で拝受。
境内には楠稲荷社が鎮座。
さらに、木津勘助の銅像と折口信夫の歌碑がありました。
木津勘助の銅像の解説板がありました。
■木津勘助(きづかんすけ)銅像■
本名を中村勘助といい、天正14年(1586年)相模(神奈川県)で生まれました。豊臣秀吉に仕え、堤防工事や新田開発に尽くしました。
徳川時代に木津川の開削により大阪の発展に寄与した功績とともに、寛永16年(1639年)に近畿一円が冷害にみまわれ大飢饉の様相を呈したとき、米(大阪城の備蓄米)放出を願い出ましたが聞き入れられず、私財を投げうって村人に分け与えました。それも限度がありついに「お蔵破り」を決行したことなどから今なお敬愛されています。
「お蔵破り」の罪で葦島(現在の大正区)に流され万治3年(1660年)75歳で亡くなりました。墓は唯専寺にあります。
(大阪市浪速区のサイトより)
<追記:2024/01/15>
大阪七福神巡りで1月13日に参拝。
大阪Metro主催ウォーキングのコースで再訪。
正月期間のため御朱印は書置きでした。
以前記帳していたデザインと同じものでした。
掲載中の丸印番号は、参拝回数時を示しています。
(例:初回は無地or①)
(例:初回は無地or①)