富士山本宮浅間大社
ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ
富士宮駅から徒歩約10分。
駿河国一之宮・富士山本宮大社へ到着します。
(バスでも行くことができます)
鳥居周辺には駐車場があり、社前案内板が掲げられていました。
楼門を進みます。
楼門を進むと、徳川家康公の寄造営の拝殿・本殿に到着します。
境内には、平日昼すぎでしたが、それ程の参拝客を見掛けませんでしたが、時折家族連れや団体客が来ていました。
参拝後は御朱印を拝受。
今回から御朱印を開始するため御朱印帳を購入。
初めのページに記帳して頂き、境内を後にしました。
東脇門を出ると、平安朝の歌人平兼盛が「つかうべきかずにをとらん浅間なる御手洗川のそこにわく玉」と詠じた湧玉池がありました。
この池は富士山の雪解け水が何層にもなった溶岩の間を通り湧出するもので、特別天然記念物に指定されているようです。
ちなみに、奥宮は富士山山頂にあります。
この後、神社前のバス停から白糸の滝へ向かいますが、神社前にある「お宮横丁」で富士宮やきそば(富士宮やきそば学会)を購入して後で食べました。
ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ
基本情報
<由緒略記>
「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年(前27)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。これが当大社の起源です。
その後は姫神の水徳をもって噴火が静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられています。この偉大な御神徳は、万人の知るところとなり、篤い崇敬を集める事となりました。また、富士山を鎮めるため浅間大神をお祀りしたのは当大社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっています。
(公式サイトより)
「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年(前27)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。これが当大社の起源です。
その後は姫神の水徳をもって噴火が静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられています。この偉大な御神徳は、万人の知るところとなり、篤い崇敬を集める事となりました。また、富士山を鎮めるため浅間大神をお祀りしたのは当大社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっています。
(公式サイトより)
🐾 あしあと 🐾
富士宮駅から徒歩約10分。
駿河国一之宮・富士山本宮大社へ到着します。
(バスでも行くことができます)
鳥居周辺には駐車場があり、社前案内板が掲げられていました。
楼門を進みます。
三間一戸、重層入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左右には随身像が安置されている。
楼門を進むと、徳川家康公の寄造営の拝殿・本殿に到着します。
拝殿は桁行5間・梁間3間で、正面が入母屋造、背面が切妻造、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付いている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している。
幣殿は本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間・梁間3間の両下造、屋根は檜皮葺、北面には本殿の屋根の端が露出している。
透塀は本殿周辺を囲む1棟と、その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を囲む1棟の、計2棟で、総延長36間に及ぶ。
境内には、平日昼すぎでしたが、それ程の参拝客を見掛けませんでしたが、時折家族連れや団体客が来ていました。
参拝後は御朱印を拝受。
今回から御朱印を開始するため御朱印帳を購入。
初めのページに記帳して頂き、境内を後にしました。
東脇門を出ると、平安朝の歌人平兼盛が「つかうべきかずにをとらん浅間なる御手洗川のそこにわく玉」と詠じた湧玉池がありました。
この池は富士山の雪解け水が何層にもなった溶岩の間を通り湧出するもので、特別天然記念物に指定されているようです。
ちなみに、奥宮は富士山山頂にあります。
湧玉池は、富士山に降った雨や雪が地下水となり、富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末端で湧出して池になったものである。
禊所付近を境に上池と下池に分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を御手洗川と呼んだ。登山者(道者)が湧玉池の水で心身を清めた後、山中へ向うという富士山信仰と関連の深い池である。
この後、神社前のバス停から白糸の滝へ向かいますが、神社前にある「お宮横丁」で富士宮やきそば(富士宮やきそば学会)を購入して後で食べました。
Control number:
G22_富士山本宮浅間大社_FUJ001_20210805
Create:2024.02.07