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熊野本宮大社|和歌山県

熊野本宮大社
くまのほんぐうたいしゃ
 

熊野本宮大社

 

基本情報

 

御朱印

御朱印

参拝日:2021年7月21日
初穂料:300円(書置)
授与所:授与所

<御由緒・歴史>
熊野連山の三千六百峰を形成する、果無山脈。その山間を縫うが如く流れ、太平洋へと続く熊野川は、まさに熊野の大動脈です。この熊野川の中枢に、古代より熊野巫大神の鎮座されるお宮が、熊野本宮大社です。熊野本宮大社は過去「熊野坐神社くまのにいますじんじゃ」と号し、熊野の神と言えば本宮のことを表していたものと推測されます。
熊野坐大神の御鎮座の年代は文献に明白ではありませんが、神武東征以前には既に御鎮座になったと云われており、社殿は崇神天皇65年(紀元前33年)に創建されたと『皇年代略記』や『神社縁起』に記されています。奈良朝の頃より仏教を取り入れ、平安朝以後は仏化により「熊野権現」と称し、神々に仏名を配するようになりました。熊野本宮大社は上・中・下社の三社から成るため、熊野三所権現と呼ばれています。また、十二殿に御祭神が鎮座ますことから、熊野十二社権現とも仰がれています。
平安当時、宇多法皇に始まる歴代法皇上皇女院の熊野御幸は百余度に及びました。幾度かの御幸に供奉した藤原定家が『明月記』の中で「感涙禁じ難し」と記しており 、困難な道を歩き御神前に詣でたことが、いかにありがたく、いかに御神徳が高かったかを窺い知ることができます。
1184年、第21代熊野別当に就任したのは、本宮・田辺を拠点とする田辺別当家の湛増でした。
源平二氏の争乱に際し、湛増率いる熊野水軍が源氏側についたことにより、勝敗が決したと云われています。
熊野別当・・・熊野三山熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の統轄にあたった役職

南北朝から室町時代にかけては、皇族や貴族などの上流階級に代わり、武士や庶民の間に熊野信仰が広がりました。身分の貴賤や老若男女を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さゆえ、熊野には大勢の人々が競って参詣し「蟻の熊野詣」と呼ばれる現象を起こすまでに至りました。
なお残念なことではありますが、明治二十二年の未曽有の大水害により社殿のうち中・下社が倒壊し、現在地に上四杜のみお祀りすることとなりました。他八社は石祠として旧社地大斎原おおゆのはらにお祀りし、現在に至っております。
(公式サイトより)

 

 🐾 あしあと 🐾  

紀勢本線紀伊田辺駅からの路線バスで約1時間40分。

全国4,700社以上ある熊野神社総本宮である熊野本宮大社前に到着。

熊野本宮大社
2004年7月、ユネスコ世界遺産に「紀伊山地霊場と参道道」に登録。
国道168号線沿いのバス停周辺には、「世界遺産熊野本宮館(入館無料)」の施設があり、本宮関連が展示されています。

世界遺産熊野本宮館
バス乗り場前には、鳥居が見え、158段の階段が続きます。

158段の階段
階段を登ると社殿が見えてきます。
※ここから基本的に参拝記念以外の撮影は遠慮下さいと注意書きあり

社殿
神殿は、右から第四殿・第三殿・第二殿・第一殿と並んでいます。
参拝は、下記の順です。
①証誠殿(本宮・第三殿) 家津美御子大神(素戔嗚尊
②中御前(結宮・第二殿) 速玉大神
③西御前(結宮・第一殿) 夫須美大
④東御前(若宮・第四殿) 天照大神
⑤満山社         結ひの神(八百萬の神)

参拝を終え、御朱印授与所で御朱印を拝受。
熊野本宮大社以外に大斎原、産田社、眞名井社の4種類の御朱印(全て書置)がありましたが、今回は熊野本宮の通常版をお願いしました。

4種類の御朱印
別途、7月の特別御朱印もありました。

境内には、黒いポストが設置されており、上には八咫烏がいます。

黒いポスト
この後、社殿裏側方向に100m離れた祓殿王子社跡へ。

祓殿王子社跡

【祓殿王子社跡】(はらいどのおうじしゃ)
和歌山県田辺市本宮町にある国の史跡>
<祓殿王子社は、熊野本宮大社への最後の王子社で、大社と近接する大樹の陰にあり、石造の小祠が祀られている。
この王子は、長かった道中の汚れ穢れを払い、身を浄めて本宮大社に参拝するための禊場であった。
天仁2年(1109年)に貴族・藤原宗忠(1062-1141)は、水呑王子に参拝したのち野路をたどり、祓いを済ませてから本宮の宿所に入って、翌日の参拝に備えたという。
また、およそ百年後の建仁元年(1201)に、和歌の講師として熊野御幸に供奉した貴族・藤原定家(1162-1241)は、この王子近くの地蔵堂後鳥羽上皇の一行を待ち、本宮の神殿に向かった。


その後、境内に戻り日本一の大鳥居と言われる大斎原(おおゆのはら)へ。

こちらは、バス乗場方面へ戻りさらに奥側にあります。
途中には、産田社があります。

産田社
この後方を振り返ると産田社が見えてきます。
(幅:約420m、高さ:約34m)

大鳥居
日本一の大鳥居をくぐり、大斎原へ向かいます。

大斎原

大斎原
旧社地「大斎原(おおゆのはら)」
太古より熊野牟婁郡音無(くまのむろごおりおとなしの)里(本宮町本宮)ここ大斎原(おおゆのはら)に鎮まり、第十代崇神天皇の御代に至り、社殿が創建されたとあります。史上有名な中世における「熊野御幸」は当聖地で宇多上皇より亀山上皇に至る迄、歴代上皇法皇女院行幸啓は百数十度に及び、奈良朝の頃より本地垂迹説が行なわれ、仏教をとり入れ、御祭神に仏徳を仰ぎ奉り「熊野三所権現、又熊野十二社権現」と証われて隆盛を極め、その後も公卿武門、一般庶民に至るまで朝野の参詣絶ゆることなく繁栄を続け、時宗の開祖一遍上人もここ証誠殿にて熊野神勅を授かり成道したと伝えられています。時宗歴代の上人(今日まで七十三代》は、宗門を継ぐ際は必ず当大社に参拝奉告、時宗護法の神と崇めて、今日に及んでいます。
不幸にして明治22年の大水害にて八神殿は倒壊、石祠にお祀り申し上げ、主神の四神殿をここより上流700mの高台にお遷し申し上げ、今日に至っております、右の通り又と得がたい聖地ですから左記厳守し後世に伝え度く存じます。
(社頭掲示板より)

 

かつて熊野本宮大社があった大斎原には二基の石祠が建てられ、左側に中四社下四社を、右側に境内摂末社の御神霊をお祀りしています。

二基の石祠

大斎原
旧社地「大斎原」
ここは、大斎原と称して、熊野本宮大社の旧社地明治22年夏、熊野川未曾有の大洪水にて、上、中、下各四社の内、上四社を除く中下社の八社段二棟が非常なる災害を蒙り、明治24年、現在地(ここより西方700mの高台)に御遷座申し上げ、今日に至っております。中四社、下四社並びに摂末社の御神霊は旧社地に、仮に石碑二殿を造営し、西方に、中、下各四社を。東方に、元境内摂末社(八咫烏神社・音無天神社・高倉下神社・海神社他)をお祀りしています。
中四社
第五殿 忍穂耳命
第六殿 瓊々杵命
第七殿 彦穂々出見命
第八殿 鵜草葺不合命
下四社
第九殿 軻遇突智命(火の神)
第十殿 埴山姫命(土の神)
第十一殿 弥都波能売命(水の神)
第十二殿 稚産霊命
(社頭掲示板より)

大斎原を参拝し、この後バスで約1時間乗車し新宮へ向かいました。

熊野本宮大社

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Create:2023.12.18

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