愛染寺
あいぜんじ
あいぜんじ
基本情報
御朱印
参拝日:2023年2月3日
納経料:各300円(直書)
授与所:堂内
<歴史>
愛染寺の興りは六百年以上前。かつては「愛染坊」と称し、兼六園近くに建立されていました。慶長年間、卯辰山に新寺を建立するにあたり、寺号を廃止し仏像などを譲ったと云われております。1649年(慶安2年)には加賀藩五代藩主・前田綱紀公が当山の再興を発願。「鎮護山 愛染院」として再建され、以来、前田家の安産祈願所とされました。
一方、片山津温泉は1653年(承応2年)大聖寺藩二代藩主・前田利明公が、鷹狩りで水鳥が柴山潟に群れているのを見て、柴山潟から温泉が沸きい出ているのを発見したとされています。それ以降、幾人もの人々が水面の埋め立て工事を試みるも失敗が続き、よくやく願いが叶ったのは1882年(明治15年)のこと。それが片山津温泉の始まりです。
温泉宿が建ち、湯治に訪れる人もだんだんと増え、温泉町としての町が形成されてゆきます。そこで温泉を守るために「お薬師さんが必要」と立ち上がった町民衆がいろいろと探し尋ね、その願いが形となったのは明治20年代の中頃。金沢より「愛染院」をこの地に迎えることができ、その後『瑠璃光山 愛染寺』となり現在に至っております。以来百二十年余り。片山津温泉の守護寺として、地元の方には「愛染寺」という名前よりも、親しみを込めて「お薬師さん」と呼ばれています。
(公式サイトより)
愛染寺の興りは六百年以上前。かつては「愛染坊」と称し、兼六園近くに建立されていました。慶長年間、卯辰山に新寺を建立するにあたり、寺号を廃止し仏像などを譲ったと云われております。1649年(慶安2年)には加賀藩五代藩主・前田綱紀公が当山の再興を発願。「鎮護山 愛染院」として再建され、以来、前田家の安産祈願所とされました。
一方、片山津温泉は1653年(承応2年)大聖寺藩二代藩主・前田利明公が、鷹狩りで水鳥が柴山潟に群れているのを見て、柴山潟から温泉が沸きい出ているのを発見したとされています。それ以降、幾人もの人々が水面の埋め立て工事を試みるも失敗が続き、よくやく願いが叶ったのは1882年(明治15年)のこと。それが片山津温泉の始まりです。
温泉宿が建ち、湯治に訪れる人もだんだんと増え、温泉町としての町が形成されてゆきます。そこで温泉を守るために「お薬師さんが必要」と立ち上がった町民衆がいろいろと探し尋ね、その願いが形となったのは明治20年代の中頃。金沢より「愛染院」をこの地に迎えることができ、その後『瑠璃光山 愛染寺』となり現在に至っております。以来百二十年余り。片山津温泉の守護寺として、地元の方には「愛染寺」という名前よりも、親しみを込めて「お薬師さん」と呼ばれています。
(公式サイトより)
🐾 あしあと 🐾
JR加賀温泉駅から路線バスで11分。
駅前は北陸新幹線延伸に伴う工事中でした。
片山津温泉バス停で下車。
バス停から左に曲がると目の前に片山津温泉守護寺の愛染寺の階段が見えてきます。
階段を上がると猪目門(ハートの門)があり、境内へ。
振り返ると片山津温泉の湖(柴山潟)が見えます。
この右側には、「どこでも幸せドア」があります。
下から登ると左側です。
高さ2.2m、幅0.8mは、諸般の事情で閉じられていましたが、住職曰く「白山山頂の奥宮・白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)」の方向に向いているようです。
境内正面には本堂があり拝観。
堂内に住職さんが居たので、本尊と愛染明王の2種類(@300円)の御朱印を拝受。
2002年に完成した護摩堂は、湾曲の造りをした建物。
入口にはステンドグラスの窓が飾られていました。
ここには他に、日本初・はめ込み式の絵馬「一心絵馬」があります。
(特許庁の実用新案登録)
真ん中のハートが切り込まれ、反対側からはめる事が出来ない絵馬です。
さらに、木造建築・永代供養納骨堂「無憂(むう)」が境内に建っています。
内部は土壁土床のようですが、閉鍵されているので内部は見ることができませんでした。
20分程滞在後、この後は近くの総湯へ向かいました。
Control number:
G17_愛染寺_ABM002_20230203
G17_愛染寺_ABM003_20230203
Create:2024.02.05